北井晴次
審判もまた技術指導と同じくその笛の整合性をルールブックに求めなければならない。技術指導者に対してはルールに基づいた技術への自覚と共通理解を図らなければならないことは先に述べた。審判もそのゲーム様相を作り出すとーいうことは技術面とまさしく同様であり、従って審判員にとってもまた、「ルールに基づいた正しい技術とは一体どういうものであるか」ということが正確に分析されていなければならない。
ゲーム構成の二大要素である技術面と審判面が『高い次元の組織による権威』によって統括されていないという「日本のハンドボール組織の未熟な面」はさて置くとして、現実に審判の笛がピーッと鳴れば、そのプレーの適否が決定される。従って、審判員には、その笛を吹くプレーについて確固たる信念がなければならない。この信念とは、ピーッと笛を吹く時だけの決断力というような瞬間的なものだけに留どまらず、ハンドボールの在り方そのものに対する信念 をも意味する。
それ故、審判員はルールにもっともっと素直に、忠実に笛を吹くべきである。
ゲームに現れる多くの要素の内、反則こそがこれらの考え方を阻害する最大のものである。審判員の笛には、「ハンドボールゲームとは何か」という審判員自身の課題探求の表現努力がなされていなければならない。ハンドボールゲームはより多くの得点を競い合うゲームである。いかに相手よりも多くの得点をあげるかである。シュートしようとした時腕を押さえる、これだけでシュー トはできない、審判はただフリースローの笛を吹くだけ、プレーはまた初めかーらやり直し、同じことの繰り返し、ゲームがこのような展開になってしまえば、勝利を目指すチームにとって、このような容易な戦法を見逃すはずはないだろう。そして、このような戦法をとるチームを誰が批判できると言うのだろうか。
ルールの制約の中で防御活動をし、相手の得点を遅くすることは可能だとしても反則を犯してまでして阻止するんだという考え方が残る限り、今、現代社会があらゆるスポーツに望んでいる「スボーツは人間形成を促すまたとない教材」という期待には、ハンドボールは到底仲間入りさせてはもらえないだろう。
ハンドボールは相手にシュートを許さなければならない、つまり相手のプレーを認めなければならないのである。相手のプレーを認めること即ち相手を人間として真に認め合うことをハンドボールの原点に置かなければならないのではないか。繰り返すが、そこにこそ現代社会が「青少年教育の絶大な切り札」としてあらゆるスポーツに「人間形成を促すまたとない教材」として期待して いる根拠があるのではないか。その中にハンドボールが堂々と割り込み、大きく認知され、揺るぎない評価と地位を得ようとするならば、「何が何でも勝つんだ。」「勝てばいいんだ。」「ルールを借りた闘争だ。」式の考え方は、『組織の権威』をもってしてでも排除されるべきであり、「そのような考え方では勝利を得ることはできないんだ」という厳正な審判ぶりを実現させなけばなら ない。
振り返れば、近年関係者の間にこのような考え方か理解され、浸透しつつあることはまことに頼もしい。このような考え方を基盤として次になすべきことは何か。ハンドボールのゲーム様相は複雑である。つられて審判員の判定も複雑となり、事実難しい場面が多い。しかし、この複雑に入り組んだ現象の中から、いくつかづつでも単純な審判要素を取り出すこと、また取り出した要素は 単純化すること、そしてその単純化した審判要索を全国の審判員にあまねく共有させること=普遍化することを積み重ねていくことが必要である。
複雑な現象→単純化→普遍化という過程の積み重ねが審判技術の原則(基本)を生み出すことであり、この原則(基本)をいかに多く身につけるかということが、より適正な審判員となることにつながる。従って日本中のすべての審判員がこれらの原則(基本)を少しづつでも確実にマスターするようあらゆる機会に指導するとともに指導した原則(基本)が確実にマスターされたかどうかを併せて確認する機能の重要性を痛感する。こうすれば、確実に審判技術のレペルアップと均質化が図られることになり、こういう審判員の管理のもとで行われるハンドボールゲームがもっと多くなって欲しいと懇願する。